中後悠平は、2019年限りで現役を引退した後も、横浜DeNAベイスターズに残り、球団を支える仕事を続けている。
2026年8月25日付のデイリースポーツの記事によると、現在の所属部署は次のとおりだ。
- 球団:横浜DeNAベイスターズ
- 組織:野球未来創造本部
- 部署:パートナー共創部
- 所属グループ:第1アカウントグループ
- 職種:営業職
かつてマウンドで打者と対峙していた中後は、現在、球団と企業をつなぐ営業の第一線で活動している。
球団職員として担当する仕事内容中後が営業職に就いた当初の仕事内容については、2020年4月のスポニチの取材に具体的な説明がある。
主な営業対象は、横浜スタジアムの広告看板や試合の冠スポンサーとなる企業だった。
具体的には、次のような業務を担当していた。
- スタジアム広告やスポンサー商品の営業
- 企業への訪問・商談
- スポンサー契約に向けた提案資料の作成
- 冠協賛試合の企画・受注
- 企業との関係構築や契約に向けた調整
当時の営業部門が扱うスポンサー企業は200~300社に及んでいたという。野球の技術とは異なり、ビジネスマナーやパソコン操作、営業資料の作成などを一から身につける必要があった。
営業未経験から数千万円規模の案件を受注転身直後から順調だったわけではない。
2021年6月のITmediaのインタビューでは、営業研修の苦労を振り返っている。
最初の2~3か月は、電話営業から企画書の作成、社内調整、契約締結までを一通り経験する実践的な研修だった。
複数の案件を同時に進めることに苦労し、資料作成やタイピングといった基本的な業務にも慣れる必要があった。
それでも、中後は野球で身につけた粘り強さを仕事に生かした。
営業職としての実績(2021年の取材で紹介)
- 2020年11月ごろ:初めて冠協賛試合の受注に成功。
- 2021年:数千万円規模の案件を受注し、個人目標を達成。
特に注目したいのは、単に球団職員として雇用されたというだけでなく、実際に営業成績を残していた点だ。
ITmediaの取材では、本人も上司やチームメンバーの支援への感謝を述べている。
選手から営業マンへ転身した理由中後が営業職を選んだ理由は、野球との関係を断ち切りたくなかったからだ。
ITmediaのインタビューでは、選手として続ける道がなくなったとき、球団事業の側からファンを喜ばせたいという考えが自然に生まれたと語っている。
また、球団職員になってからは、選手時代には意識していなかった球団運営の裏側にも目を向けるようになった。
象徴的だったのが、新型コロナウイルスの影響で無観客試合が行われた時期の応援パネル設置だ。
約3,000人分のファンの応援パネルを、球団スタッフが協力して客席に取り付けたという。
選手が試合に集中できる環境は、球団職員やスポンサー、ファンの支援によって成り立っている。その構造を実感したことが、仕事への意識を変えるきっかけになった。
現在の中後にとって、選手と球団の双方の立場を理解できることは大きな強みになっている。
【経歴年表】近畿大学ドラフト2位からロッテ、米国、DeNAへ
中後悠平の野球人生は、一般的なプロ野球選手とは異なる経路をたどった。
日本のプロ野球から独立リーグ、米国マイナーリーグ、そして再びNPBへ。複数の環境を経験したことが、その後のセカンドキャリアにもつながっている。
基本プロフィール| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 中後悠平(なかうしろ・ゆうへい) |
| 生年月日 | 1989年9月17日 |
| 2026年11月現在 | 37歳 |
| 出身地 | 大阪府 |
| 投打 | 左投左打 |
| 出身高校 | 近畿大学附属新宮高校 |
| 出身大学 | 近畿大学 |
| ドラフト | 2011年ドラフト2位 |
| 最初の所属球団 | 千葉ロッテマリーンズ |
| 最終所属球団 | 横浜DeNAベイスターズ |
| 現在の職業 | DeNA球団職員 |
プロフィールとドラフト情報は日本野球機構およびDeNAの球団発表に基づく。
中後悠平のキャリア年表中後がプロ入り前から注目されていた理由は、左投手としての球速と独特の投球フォームにあった。
近畿大学では、2年生の春に関西学生野球リーグで活躍。150キロを記録し、大学日本代表にも選ばれた。
日本通運の侍ジャパン応援特設サイトのインタビューでは、大学入学当初はプロ野球を現実的な進路として考えていなかったことも紹介されている。
高校時代は公式戦での登板機会が限られていたが、大学で才能が開花した形だ。
2011年のドラフト会議では、千葉ロッテマリーンズから2位指名を受けた。
当時のロッテは、即戦力として期待できる左のリリーフ投手を獲得したことになる。
大学時代に培った投球技術と、独特の腕の振りがプロの世界でどこまで通用するのか。ファンの期待も集まっていた。
【ロッテ時代の戦力外通告】中後悠平が退団した理由は?
中後のプロ野球人生で最初の大きな転機となったのが、2015年オフの千葉ロッテマリーンズからの戦力外通告だった。
2012年の新人時代には一軍で27試合に登板し、2勝を挙げている。ところが、翌年以降は一軍での登板機会が大きく減少した。
ロッテ時代の成績と課題日本野球機構の公式年度別成績を見ると、次のような推移になっている。
| 年度 | 登板 | 勝敗 | ホールド | 防御率 |
|---|---|---|---|---|
| 2012年 | 27 | 2勝0敗 | 5 | 4.87 |
| 2013年 | 5 | 0勝1敗 | 1 | 18.00 |
| 2014年 | 5 | 0勝1敗 | 0 | 6.75 |
| 2015年 | 0 | - | - | - |
1年目は開幕から一軍の中継ぎとして起用され、左打者対策だけでなく、変則的なフォームを武器に右打者にも対応した。
しかし、2年目以降は登板数が減少。2015年は一軍登板がなかった。
戦力外通告の背景にあった制球難と故障2015年11月のFull-Countの記事では、中後の退団について、故障や制球難が影響し、登板機会が減っていたと報じられている。
特に制球面は、本人にとっても大きな課題だった。
変則フォームから繰り出すスライダーや速球には魅力があった一方、投球が安定しなければ一軍の重要な場面で起用し続けることは難しい。
当時の成績を見ると、2012年の防御率4.87から2013年は18.00へ悪化し、その後も安定した一軍登板機会を確保できなかった。
つまり、戦力外通告の背景には、単に球速や潜在能力が不足していたというよりも、持ち味を継続的に発揮するための制球力やコンディションの課題があった。
なお、故障の詳細や球団が判断した編成上の具体的理由について、ロッテが公表した確定的な説明は確認できない。
退団後に選んだ独立リーグという道ロッテから戦力外通告を受けた中後は、12球団合同トライアウトに参加した。
しかし、思うような結果を残せず、NPB球団からのオファーはなかった。
その後、BCリーグの武蔵ヒートベアーズに入団することが決まる。
この段階で野球を続けること自体が難しい状況だったが、彼の投球を見ていた米国球団関係者の目に留まり、ダイヤモンドバックスとの契約につながっていく。
一度の戦力外通告で野球人生を終わらせず、独立リーグを経由して海外へ活路を見いだした点は、中後の経歴を特徴づける部分だ。
【米国ダイヤモンドバックス挑戦】マイナーリーグ成績とバース・デイ出演
2016年、中後はアリゾナ・ダイヤモンドバックスとマイナー契約を結び、米国での挑戦をスタートさせた。
2016年3月に契約が報じられ、ルーキーリーグからスタート。短期間で複数の階級を経験し、3Aまで昇格した。
ダイヤモンドバックス傘下での成績特筆すべきなのは、2016年の3Aでの成績だ。
DeNAが2018年に獲得を発表した際に掲載した過去の成績によると、中後は2016年に3Aリノで13試合に登板。10回2/3を投げて自責点0、防御率0.00を記録している。
2017年は2Aジャクソンを中心に登板を重ねた。
| 年度・所属 | 登板 | 投球回 | 防御率 |
|---|---|---|---|
| 2016年・ルーキー級 | 1 | 1回1/3 | 0.00 |
| 2016年・A級ケーンカウンティ | 3 | 3回 | 0.00 |
| 2016年・A級バイセイリア | 13 | 14回1/3 | 2.51 |
| 2016年・3Aリノ | 13 | 10回2/3 | 0.00 |
| 2017年・2Aジャクソン | 48 | 65回 | 2.35 |
| 2017年・3Aリノ | 2 | 2回2/3 | 6.75 |
| 2018年・2Aジャクソン | 24 | 34回 | 5.29 |
2017年は2Aと3Aを合わせて50試合に登板し、1勝2敗、防御率2.53を記録した。
この時期には、メジャー昇格も現実的な目標として見えていた。
メジャー昇格目前まで迫った理由2016年には3Aで13試合連続無失点という結果を残した。
当時のFull-Countの取材記事では、ダイヤモンドバックスが中後のメジャー昇格を球団内で検討していたことも報じられている。
ただし、昇格は実現しなかった。
メジャー昇格は個人の成績だけで決まるものではない。40人枠の構成、チームの補強方針、他の選手との兼ね合いなど、球団側の判断も大きく影響する。
2017年の好成績もあり、招待選手としてメジャーキャンプに参加する機会を得たものの、メジャーデビューには届かなかった。
2018年は成績が悪化し、契約解除に2018年は2Aジャクソンで24試合に登板し、1勝1敗、防御率5.29だった。
34イニングで36奪三振を記録した一方、16四球を与えており、前年までの安定感を維持できなかった。
そして2018年6月、ダイヤモンドバックス傘下からリリースされたことが報じられた。
米国での挑戦は約2年半で一区切りとなる。
TBS「バース・デイ」に出演していた?
出演は事実。
TBSの公式番組バックナンバーには、2016年8月13日放送の第533回として「戦力外から異例の挑戦 中後悠平 アメリカでの挑戦」というタイトルが掲載されている。
この番組では、ロッテ退団後に米国へ渡った中後の挑戦が取り上げられた。
ここで注意したいのが、TBSの「バース・デイ」と、年末に放送される「プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達」は別の番組だという点だ。
中後の米国挑戦に関しては、戦力外後の独立リーグでの姿を追った番組を見たメジャー関係者が興味を持ったという報道もある。
つまり、バース・デイへの出演は公式アーカイブで確認できる一方、米国球団との契約につながった経緯については、別のドキュメンタリーをめぐる報道と区別して理解する必要がある。
【DeNA復帰から現役引退へ】最後の登板と決断の背景
米国での契約解除後、中後は日本に帰国した。
その後、左腕投手の補強を進めていた横浜DeNAベイスターズの入団テストを受け、2018年7月4日に球団から獲得が正式発表された。
ロッテを退団してから約3年。再びNPBの舞台に戻る機会を手にした。
2018年8月28日の中日戦が印象的な登板にDeNA時代の中後を語るうえで欠かせないのが、2018年8月28日の中日ドラゴンズ戦だ。
試合のピンチの場面で登板し、無失点に抑えた。
この試合後にはヒーローインタビューにも選ばれている。
2019年11月25日に発表された現役引退のコメントでも、本人はこの登板をDeNAでの一番の思い出として挙げた。
ロッテでの戦力外、米国での挑戦、そして日本球界への復帰。さまざまな経験を経て、再びNPBの舞台で結果を残せた瞬間だった。
2019年にDeNAから再び戦力外通告2019年シーズン、中後は一軍で4試合に登板した。
一方、ファームでは44試合に登板し、防御率1.17という好成績を残していた。
一軍での登板機会が限られたことに加え、チームの選手編成や投手陣の競争もあり、2019年10月1日に翌シーズンの契約を結ばないことが発表された。
ここで重要なのは、ファームでの成績が悪かったから戦力外になった、と単純化できないことだ。
一軍での起用機会と二軍での成績には違いがあり、球団の編成判断には複数の要素が関係する。
中後の場合、二軍で一定の結果を残していたものの、一軍での登板数は2018年の8試合、2019年の4試合にとどまった。
2019年11月25日に現役引退を発表戦力外通告を受けた中後は、2019年11月25日に現役引退を表明した。
当時30歳。
まだ野球を続けたい気持ちはあったものの、自分の中ではやり切ったという思いがあった。
球団公式発表に掲載されたコメントでは、次のように語っている。
「まだまだ野球をしたいという気持ちはありますが、全力で力を出し切りました」
また、DeNAでプレーする機会を与えてくれた球団への感謝も伝えていた。
引退は本人にとって簡単な決断ではなかった。しかし、他球団からの獲得オファーがなかったことも踏まえ、選手としてのキャリアに区切りをつけた。
その後、球団職員として残る道が提示され、営業職への転身が決まった。
【NPB通算成績とセカンドキャリアの評判】中後悠平の野球人生を数字で検証
中後悠平の現役時代を振り返る際、印象的な投球フォームや米国挑戦のエピソードだけでは、選手としての実績を正しく評価できない。
日本野球機構の公式記録を確認すると、NPBでの通算成績は次のとおりだ。
NPB通算49試合、2勝2敗、防御率5.0949試合
NPB一軍通算登板数
2勝2敗
通算勝敗
7
通算ホールド
5.09
通算防御率
35回1/3
通算投球回
出典:日本野球機構 個人年度別成績(2025年シーズン終了時掲載)
数字だけを見ると、長期間にわたって一軍の主力投手として活躍したタイプではない。
しかし、プロ1年目の27試合登板、米国マイナーでの3A昇格、DeNAでの再起など、キャリアの節目ごとに印象的な実績を残している。
特に2016年の3Aでの防御率0.00や、2017年のマイナー通算防御率2.53は、米国で投手として一定の評価を得たことを示す数字だ。
「千手観音投法」と呼ばれた投球フォームの特徴中後を象徴する言葉が「千手観音投法」だ。
その理由は、腕の位置を自在に変化させる独特の投球スタイルにある。
一般的な投手は、オーバースローやスリークォーター、サイドスローなど、基本となる腕の位置を定めて投球する。
一方、中後は上、横、下と腕の位置を変えながら投げる変則左腕として知られた。
さらに150キロ台の速球を投げる能力もあり、打者からすれば球の出どころや角度を見極めにくいタイプだった。
デイリースポーツは、2026年8月の記事で「和製ランディ・ジョンソン」という異名も紹介している。
ただし、独特のフォームだけで長期間の活躍が保証されるわけではない。
中後のキャリアは、変則投法という強みを持ちながら、制球力やコンディションの安定がプロで生き残るための重要な条件だったことも示している。
セカンドキャリアの評判は?営業職への転身が示したもの中後のセカンドキャリアで評価したいのは、野球経験をそのまま指導職に置き換えなかったことだ。
元選手が引退後に選ぶ仕事としては、コーチ、スカウト、野球スクールの指導者などが知られている。
しかし、中後は営業という異なる分野に挑戦した。
その背景には、球団の一員としてファンを喜ばせたいという思いがあった。
2021年のITmediaの取材で確認できる実績は、次のとおりだ。
| 評価ポイント | 報道で確認できる内容 |
|---|---|
| 営業への適応 | 未経験から営業研修を受講 |
| 初受注 | 2020年11月ごろに冠協賛試合を受注 |
| 営業実績 | 数千万円規模の案件を受注 |
| 仕事への姿勢 | 上司やチームと協力して目標達成 |
| 将来への意識 | 後輩の元選手のセカンドキャリアも支えたいと発言 |
特に興味深いのは、選手時代の経験が営業職で別の形に変換されていることだ。
野球では、相手の特徴を分析し、状況に応じて投球を変え、結果が出なければ改善を重ねる。
営業でも、企業の要望を理解し、相手に合わせて提案を組み立て、契約に向けて調整を続ける必要がある。
両者はまったく同じ仕事ではないが、継続力やコミュニケーション能力、目標に向けて改善する姿勢には共通点がある。
中後の事例は、プロ野球選手のセカンドキャリアが指導者だけに限られないことを示している。
【中後悠平に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:中後悠平は2026年現在、何をしている?
A1:横浜DeNAベイスターズの球団職員として働いている。2026年8月のデイリースポーツの報道では、野球未来創造本部・パートナー共創部・第1アカウントグループに所属し、営業の第一線で活動している。
Q2:中後悠平はなぜロッテを戦力外になった?
A2:2015年オフ、故障や制球難などを背景に一軍登板機会が減少し、戦力外通告を受けた。2015年の一軍登板はなかった。
Q3:中後悠平はメジャーリーグに昇格した?
A3:メジャーリーグでの公式戦出場はない。アリゾナ・ダイヤモンドバックス傘下のマイナーリーグでプレーし、3Aまで昇格したが、メジャーデビューは実現しなかった。
Q4:中後悠平はDeNAで何年プレーした?
A4:2018年7月に加入し、2019年シーズンまでプレーした。NPB公式記録では、DeNAでの一軍登板は2018年8試合、2019年4試合の計12試合。
Q5:中後悠平のNPB通算成績は?
A5:49試合登板、2勝2敗、7ホールド、防御率5.09。日本野球機構の公式記録に掲載されている。
Q6:中後悠平はバース・デイに出演した?
A6:出演している。TBSの公式アーカイブには、2016年8月13日放送の第533回「戦力外から異例の挑戦 中後悠平 アメリカでの挑戦」と記録されている。
Q7:中後悠平はなぜ営業職を選んだ?
A7:選手としてのキャリアを終えた後も野球に関わり、球団事業の側からファンを喜ばせたいと考えたため。球団から営業職という選択肢を提示され、自ら決断したことをITmediaのインタビューで明かしている。
中後悠平の野球人生は、決して順風満帆ではなかった。
近畿大学から2011年ドラフト2位で千葉ロッテに入団し、1年目には27試合に登板。しかし、制球難や故障などの課題から登板機会を失い、2015年オフに戦力外通告を受けた。
その後、独立リーグを経てアリゾナ・ダイヤモンドバックス傘下のマイナーリーグに挑戦。3Aまで昇格し、メジャーデビューに迫ったものの、夢は実現しなかった。
2018年には横浜DeNAベイスターズでNPB復帰を果たしたが、2019年に再び戦力外通告を受け、30歳で現役引退を決断した。
しかし、中後の野球人生はそこで終わらなかった。
2020年からはDeNAの営業部門で新たなキャリアをスタート。営業未経験から仕事を学び、冠協賛試合の受注や数千万円規模の案件獲得など、ビジネスの世界でも実績を積み重ねた。
そして2026年8月の報道では、パートナー共創部の第1アカウントグループで営業の第一線に立つ姿が紹介されている。
中後悠平のキャリアから読み取れる最大の要点は、現役引退が野球との関係の終わりを意味するわけではないということだ。
選手としての実績だけでなく、米国での経験、戦力外通告を受けた苦悩、異業種に近い営業職への挑戦までを含めて見ると、その歩みはプロ野球選手のセカンドキャリアを考えるうえで貴重な事例になっている。
今後も、選手として培った経験を球団運営や企業とのパートナーシップにどう生かしていくのか。かつての変則左腕が、今度は球団を支える立場でどのような成果を積み重ねるのかに注目したい。