和泉雅子さんが亡くなったのは、2025年7月9日午後1時3分です。所属事務所が訃報を発表したのは9日後の7月18日でした。
TBS NEWS DIGや日刊スポーツなどの報道によると、亡くなった場所は東京都内の自宅で、死因は原発不明がんでした。
5月に倒れて入院、その後は自宅療養所属事務所が公表した経過は次のとおりです。
- 2025年5月:自宅で倒れ、都内の病院に入院。
- 入院後:治療を受けて退院。
- 退院後:自宅で療養生活を送る。
- 2025年7月9日:体調が急変し、午後1時3分に自宅で死去。
- 2025年7月18日:所属事務所が死去を公表。
病気について広く報じられるようになったのは、亡くなった後の発表がきっかけでした。闘病中の詳細については、所属事務所から公表された範囲を超える情報はありません。
死因の原発不明がんとは?原発不明がんとは、十分な検査を行っても、がんが最初に発生した臓器を特定できず、転移したがんだけが確認される病気です。
国立がん研究センターの解説によると、原発巣が判明しない場合でも、病理検査などによってがんの性質を調べ、病状に応じた治療方針を検討します。
つまり、原発不明がんという名称は、がんそのものの存在が分からないという意味ではありません。最初に発生した場所を特定できないという医学的な分類です。
和泉さんの場合、所属事務所が発表した死因は原発不明がんです。どの臓器から発生したのか、具体的にどのような治療を受けたのかといった詳細は公表されていません。
生前葬を済ませていたため、葬儀は行われなかった和泉さんの訃報で注目されたもう一つの点が、葬儀やお別れ会を行わないという発表でした。
所属事務所によれば、和泉さんは生前葬を営んでいました。そのため、本人の遺志を尊重し、死去後の葬儀・告別式は行わないことになりました。
また、お別れ会や偲ぶ会についても予定はないと発表されています。
生前葬とは、本人が存命中に自らの葬儀に相当する儀式を行うものです。和泉さんの場合は、すでに生前葬を済ませていたことが、死後に葬儀を行わない理由として説明されました。
これは所属事務所が公表した本人の意思に関する情報であり、一般的な芸能人の葬儀形式とは異なる対応でした。
【女優としての原点】和泉雅子さんの経歴と日活三人娘の時代
和泉雅子さんは、1947年7月31日に東京都銀座で生まれました。
芸能界入りは10歳のころです。劇団若草で子役として活動を始め、その後、映画や舞台の世界で経験を積みました。
転機となったのが1961年の日活入社です。当時14歳だった和泉さんは、青春映画を中心に数多くの作品に出演し、若手スターとして人気を集めました。
吉永小百合さん・松原智恵子さんと日活三人娘に1960年代の日活は、青春映画やアクション映画などを数多く制作していた映画会社です。
その時代に和泉さんは、吉永小百合さん、松原智恵子さんとともに「日活三人娘」と呼ばれました。
3人はそれぞれ異なる個性を持ちながら、青春映画を代表する女優として人気を確立しました。
和泉さんの魅力は、明るく親しみやすいスター性だけではありません。若い年齢から、複雑な感情を抱える人物や、社会的な問題に直面する少女なども演じていました。
代表作『非行少女』で演技派として評価される1963年公開の映画『非行少女』は、和泉雅子さんの代表作として知られています。
監督は浦山桐郎さん。貧困や孤独を抱えた少女の青春を描いた社会派作品です。
和泉さんは主人公の若枝を演じ、その演技は国内外で高く評価されました。作品はモスクワ国際映画祭で金賞を受賞し、和泉さん自身もエランドール賞新人賞を受賞しています。
当時の若手女優としての人気だけでなく、演技力を認められるきっかけになった作品でした。
その後も『エデンの海』『絶唱』などに出演し、青春映画を中心に女優としての地位を築きました。
山内賢さんとの「二人の銀座」も大ヒット和泉さんは女優だけでなく、歌手としても活動していました。
特に知られているのが、俳優の山内賢さんとのデュエット曲「二人の銀座」です。
1966年に発売されたこの楽曲は、ザ・ベンチャーズの楽曲をカバーしたもので、100万枚を超える大ヒットを記録しました。
翌1967年には、和泉さんと山内さんが主演する同名映画も公開されています。
映画と音楽の両方で人気を獲得したことは、当時の和泉さんの幅広い活躍を象徴しています。
【経歴年表・関係者一覧】和泉雅子さんの人生を時系列で整理
和泉雅子さんの経歴を理解するうえで重要なのは、女優としての活動と冒険家としての活動を別々の人生として捉えないことです。
子役時代から日活のスター、そして極地探検への挑戦まで、時代ごとに活動の幅を広げてきました。
次の表に、主要な出来事と関係する人物・作品をまとめました。
| 時期 | 人物・作品 | 出来事・実績 |
|---|---|---|
| 1947年 | 和泉雅子 | 7月31日、東京・銀座に誕生 |
| 1950年代 | 劇団若草 | 10歳で子役として活動開始 |
| 1958年 | 『荒城の月』 | 子役として映画出演 |
| 1961年 | 日活・『七人の挑戦者』 | 14歳で日活入り、本格的な映画デビュー |
| 1963年 | 『非行少女』 | 主演。モスクワ映画祭金賞 |
| 1960年代 | 吉永小百合・松原智恵子 | 日活三人娘として人気を獲得 |
| 1966年 | 山内賢・『二人の銀座』 | デュエット曲が大ヒット |
| 1968年 | 日活退社 | テレビ・舞台などへ活動の場を広げる |
| 1983年 | 南極訪問 | テレビドキュメンタリーをきっかけに極地への関心を深める |
| 1985年 | 北極点遠征 | 初挑戦。北極点まで約148キロの地点で断念 |
| 1989年5月10日 | 北極点到達 | 日本人女性として初の北極点到達 |
| 2025年7月9日 | 死去 | 原発不明がんのため77歳で死去 |
| 2026年2月28日〜3月13日 | 神保町シアター | 和泉雅子さんの追悼特集上映を開催 |
| 関係者・作品 | 和泉雅子さんとの関係 |
|---|---|
| 吉永小百合さん | 日活三人娘の一人 |
| 松原智恵子さん | 日活三人娘の一人 |
| 山内賢さん | 「二人の銀座」のデュエット相手 |
| 浦山桐郎さん | 『非行少女』の監督 |
| 日活 | 1961年に入社した映画会社 |
| 北極点遠征隊 | 和泉さんが隊長を務めた遠征隊 |
このように、和泉さんのキャリアには映画界の著名人とのつながりだけでなく、自ら隊を組織して未知の領域へ挑戦するという独自の活動がありました。
【1989年5月10日】日本人女性初の北極点到達という歴史的快挙
女優として人気を獲得した和泉雅子さんが、もう一つの大きな歴史を残したのが北極点への挑戦です。
芸能人が冒険に挑戦するという話題性だけではありませんでした。和泉さんは自ら遠征隊を組織し、隊長として極地探検に取り組んだのです。
北極点を目指したきっかけは南極訪問日刊スポーツの報道によると、和泉さんは1983年、テレビ東京系のドキュメンタリー番組の取材で南極を訪れました。
この経験が北極への関心につながり、北極点到達を目指すようになりました。
それまで映画やテレビで活躍していた和泉さんにとって、極地探検はまったく異なる分野への挑戦でした。
1985年の初挑戦は148キロ手前で断念1985年、和泉さんは自ら隊長を務める北極点遠征隊を組織し、最初の挑戦に出発しました。
しかし、5月25日、北緯88度40分の地点で前進を断念します。
この地点から北極点までは約148キロ。目標を目前にしながらも、到達することはできませんでした。
遠征の厳しさを経験した和泉さんでしたが、挑戦そのものを諦めることはありませんでした。
1989年、2度目の挑戦でついに北極点へそして1989年、和泉さんは再び北極点を目指します。
1989年5月10日、ついに日本人女性として初めて北極点への到達に成功しました。
TBS NEWS DIGなどの報道によれば、出発から62日目の達成でした。
日本記録認定協会にも、和泉雅子さんの1989年5月10日の到達記録が掲載されています。同協会は、海氷上から自力で北極点に到達した日本人女性初の記録として紹介しています。
北極点到達後も冒険家として活動和泉さんの挑戦は、北極点に到達した時点で終わったわけではありません。
その後も講演活動などを通じて自身の経験を伝え、北極探検に関する著書も出版しました。
代表的な著書には、次の作品があります。
- 『私だけの北極点 北緯88度40分』
- 『笑ってよ、北極点』
女優時代の知名度を生かした話題づくりだけでは、1985年の失敗から1989年の成功まで続く挑戦は説明できません。
和泉さんの冒険家としての評価を支えているのは、実際に遠征隊を組織し、失敗を経験したうえで再挑戦し、歴史的な記録を達成したという具体的な実績です。
【2026年最新】和泉雅子さんの追悼上映が神保町シアターで開催
和泉雅子さんの死去後、その女優としての功績を映画館で振り返る追悼企画が開催されました。
小学館が運営する神保町シアターでは、2026年2月28日から3月13日まで、「天才子役、演技派、冒険家――女優・和泉雅子」と題した追悼特集が組まれました。
この企画では、日活時代の出演作を中心に、和泉さんの女優人生を振り返る作品が上映されました。
追悼上映で取り上げられた主な作品| 作品名 | 公開年 | 作品の特徴 |
|---|---|---|
| 『悪太郎』 | 1963年 | 鈴木清順監督の青春文芸ドラマ |
| 『おゆきさん』 | 1966年 | 和泉さんが主人公のおゆきを演じる作品 |
| 『私は泣かない』 | 1966年 | 少女の更生と成長を描く作品 |
| 『青春の海』 | 1966年 | 吉永小百合さんらも出演 |
| 『非行少女』 | 1963年 | 和泉さんの代表作。モスクワ映画祭金賞 |
| 『絶唱』 | 1966年 | 舟木一夫さんと共演した文芸作品 |
| 『終りなき生命を』 | 1967年 | 実話を基にした人間ドラマ |
| 『朝霧』 | 1968年 | 杉良太郎さんらと共演 |
神保町シアターの上映案内では、作品によって35ミリフィルム上映とデジタル上映が使い分けられていました。
特に注目したいのは、『非行少女』だけでなく、『おゆきさん』『私は泣かない』『絶唱』など、異なる役柄を演じた作品が選ばれている点です。
和泉さんの出演作を複数の角度から振り返ることで、単に人気女優としてだけではなく、演技派としての側面も紹介する企画になっていました。
なお、この特集上映は2026年3月13日に終了しています。2026年11月現在、当該企画は過去の追悼上映です。
追悼上映が示した和泉雅子さんの女優としての価値今回の企画で興味深いのは、冒険家としての知名度だけでなく、日活時代の映画作品に焦点が当てられたことです。
和泉さんは北極点到達という大きな実績を持っていますが、その前提には10代から積み重ねた女優としてのキャリアがありました。
映画作品を通して当時の演技を見直すことは、冒険家という肩書きだけでは伝わらない、和泉さんの表現者としての魅力を再発見する機会にもなります。
【プロの結論】和泉雅子さんの人生が残した本当の功績とは
和泉雅子さんの人生を振り返ると、女優と冒険家という二つの肩書きが、単に並んでいるわけではないことが分かります。
1960年代には日活の青春映画を代表するスターとして活躍し、映画『非行少女』では演技力を高く評価されました。
そして1980年代には、それまでの芸能活動とは異なる北極点到達という目標を掲げ、1985年の失敗を経て1989年に成功を収めました。
ここから読み取れるのは、和泉さんが一つの成功にとどまらなかったということです。
和泉雅子さんを評価する3つの視点1. 女優としての実績
日活三人娘としての人気だけでなく、『非行少女』でモスクワ映画祭金賞を受賞したことは、演技者としての評価を示す重要な実績です。
2. 冒険家としての実績
1989年5月10日の北極点到達は、本人の努力だけでなく、遠征隊を組織して実行したプロジェクトとしての価値もあります。
3. 失敗から再挑戦した姿勢
1985年に北極点到達を断念した後、4年後に再挑戦して成功したことは、和泉さんの人生を象徴するエピソードです。
女優として築いた知名度に安住せず、新しい世界に挑んだことこそ、和泉雅子さんの人物像を理解するうえで欠かせない部分です。
和泉雅子さんの現在に関するよくある質問(FAQ)
Q1:和泉雅子さんは現在どうしていますか?
A1:和泉雅子さんは2025年7月9日に原発不明がんのため77歳で亡くなりました。2026年11月現在は故人です。
Q2:和泉雅子さんの死因は何ですか?
A2:死因は原発不明がんです。2025年5月に自宅で倒れて入院し、退院後は自宅療養を続けていました。
Q3:和泉雅子さんは何歳で亡くなりましたか?
A3:享年77歳です。1947年7月31日生まれで、2025年7月9日に亡くなりました。
Q4:和泉雅子さんの訃報はいつ発表されましたか?
A4:2025年7月18日に所属事務所から発表されました。亡くなった日から9日後の公表でした。
Q5:和泉雅子さんはなぜ葬儀を行わなかったのですか?
A5:生前葬を営んでいたためです。所属事務所は本人の遺志により、葬儀やお別れ会、偲ぶ会などを行わないと発表しました。
Q6:和泉雅子さんと吉永小百合さん、松原智恵子さんの関係は?
A6:3人は日活三人娘と呼ばれた同時代の人気女優です。日活の青春映画などで活躍し、1960年代の映画界を彩りました。
Q7:和泉雅子さんが北極点に到達したのはいつですか?
A7:1989年5月10日です。日本人女性として初めて北極点到達を果たしました。1985年の初挑戦では到達できず、2度目の遠征で成功しています。
Q8:和泉雅子さんの代表作は何ですか?
A8:映画『非行少女』『エデンの海』『絶唱』などが代表作として知られています。また、山内賢さんとのデュエット曲「二人の銀座」も大ヒットしました。
Q9:和泉雅子さんの追悼上映は2026年に開催されましたか?
A9:はい。神保町シアターで2026年2月28日から3月13日まで追悼特集が開催されました。『非行少女』『悪太郎』『おゆきさん』『絶唱』などが上映されました。
和泉雅子さんは、2025年7月9日に原発不明がんのため77歳で亡くなりました。所属事務所が訃報を発表したのは7月18日で、生前葬を営んでいたことから、本人の遺志により葬儀やお別れ会は行われませんでした。
女優としては、吉永小百合さん、松原智恵子さんとともに日活三人娘として人気を集め、『非行少女』では演技力を高く評価されました。「二人の銀座」のヒットも、彼女の芸能活動を語るうえで欠かせない実績です。
加えて、1989年5月10日には日本人女性として初めて北極点に到達。1985年の失敗を乗り越えて成し遂げたこの快挙は、冒険家としての和泉さんの名前を歴史に刻みました。
2026年の神保町シアターでの追悼上映も、映画女優としての功績を改めて振り返る機会となりました。
和泉雅子さんの人生を象徴するのは、女優としての成功だけでも、北極点到達という記録だけでもありません。 一つの世界で築いた地位にとどまらず、未知の世界へ自ら踏み出し、失敗を経験しても再び挑戦した生き方そのものです。
その作品と功績は、これからも日本映画史と日本の冒険史の両方で語り継がれていくはずです。