若嶋津さんの現役時代を語るうえで欠かせないのが、「南海の黒豹」という異名です。
精悍な顔立ち、浅黒く引き締まった体、そして素早い動き。大型力士がひしめく大相撲の世界で、若嶋津さんはスピードと技術を武器に存在感を発揮しました。
「南海の黒豹」という異名の由来若嶋津さんは、188cmの長身ながら、当時の大型力士と比較すると比較的軽量な体格でした。
その体格を生かした俊敏な動きと、左四つからの力強い攻めが持ち味でした。
特に得意としたのは次の技です。
- 左四つ: 左を差して相手の体勢を崩す基本の型。
- 上手投げ: 相手の上手を取って豪快に投げる技。
- 吊り: 相手の体を持ち上げて土俵外へ運ぶ技。
単純な体重勝負ではなく、相手の動きを読み、素早く有利な体勢を作る取り口が特徴でした。
「南海の黒豹」という呼び名は、種子島出身という南の島のイメージと、黒く引き締まった体、俊敏な動きを重ねたものです。愛称そのものが、当時の若嶋津さんの個性をよく表していました。
大関昇進から2度の幕内優勝まで大関への昇進が決まったのは、1982年九州場所後です。1983年初場所から大関として土俵に上がりました。
昇進までの勢いを維持し、1984年には相撲人生を代表する大きな成果を残します。
1984年3月・春場所
14勝1敗
幕内初優勝を達成。大関として実力を証明した場所でした。
1984年7月・名古屋場所
15戦全勝
2度目の幕内優勝。全勝という圧倒的な成績で賜杯を手にしました。
同じ年に2度の幕内優勝を成し遂げたことは、若嶋津さんの評価を大きく高めました。
一方、横綱昇進には届きませんでした。大関として高い実力を示したものの、横綱に求められる継続的な優勝や安定した成績を残すには至らなかったためです。
1985年には3度目の優勝を目指す場所もありましたが、悲願の横綱昇進は実現しませんでした。
若嶋津六夫さんの通算成績日本相撲協会の公式プロフィールに掲載されている成績は、次のとおりです。
生涯勝利数515勝
75場所
幕内優勝2回
1984年に達成
大関在位28場所
1983年1月〜1987年7月
三賞受賞5回
敢闘賞2回・技能賞3回
| 項目 | 公式記録 |
|---|---|
| 生涯戦歴 | 515勝330敗21休 |
| 幕内戦歴 | 356勝219敗13休 |
| 大関戦歴 | 250勝145敗13休 |
| 幕内優勝 | 2回 |
| 十両優勝 | 1回 |
| 序ノ口優勝 | 1回 |
| 金星 | 2個 |
| 敢闘賞 | 2回 |
| 技能賞 | 3回 |
金星2個はいずれも横綱・北の湖から獲得したものです。
特に注目したいのは、幕内だけで356勝を挙げている点です。単に一時期だけ活躍した力士ではなく、長く上位で戦い続けた実績があります。
これらの数字は日本相撲協会の公式記録に基づくもので、若嶋津さんの競技者としての評価を考えるうえで最も信頼できる基礎資料です。
【2017年の転倒事故】頭部の緊急手術と長いリハビリ生活
若嶋津さんの人生において、大きな転機となったのが2017年10月19日の転倒事故です。
当時60歳だった若嶋津さんは、日本相撲協会の理事を務め、二所ノ関審判部長としても活動していました。
2017年10月19日、千葉県船橋市の路上で倒れているところを発見日刊スポーツやデイリースポーツの当時の報道によると、2017年10月19日午後4時20分ごろ、千葉県船橋市行田の路上で若嶋津さんが倒れているのを通行人が発見しました。
近くには自転車が倒れていました。
頭部を強く負傷しており、船橋市内の病院に緊急搬送されます。
当時の報道で明らかになった主な状況は次のとおりです。
- 発見日時:2017年10月19日午後4時20分ごろ
- 発見場所:千葉県船橋市内の路上
- 発見時の状況:自転車とともに倒れていた
- 負傷箇所:頭部
- 治療:緊急の頭部手術
- 手術時間:約4時間半
当時の報道では、頭部の陥没骨折や、頭部にたまった血液を取り除く処置についても伝えられています。
一時は意識不明の重体に手術は約4時間半に及びました。
手術後も集中治療室で治療を受け、一時は意識不明の重体と報じられました。
翌20日には、関係者から容体について説明があり、少しずつ反応が見られるようになったことが伝えられています。
21日の日刊スポーツの記事では、指先が動くなどの反応が出てきたことも報じられました。
妻のみづえさんや家族が病院に寄り添い、日本相撲協会の関係者も回復を願っていました。
事故後は長期のリハビリ生活へ若嶋津さんは命の危機を脱したものの、以前と同じように相撲協会の業務を続けられる状態には戻りませんでした。
長期にわたるリハビリ生活が続きます。
2017年の事故によって、当時検討されていた次期理事選への出馬も見送ることになりました。
その後も回復に向けた生活を続け、2023年12月に東京都内で開かれた「感謝の集い」では、家族に車いすを押されて登場しています。
この集いには約400人の関係者や部屋のOBらが出席しました。
同日の報道によると、若嶋津さんは関取を7人育てられたことへの感謝を伝えていました。
2017年の転倒が2026年の死因だったのか?この点は、検索する読者が誤解しやすい部分です。
2026年3月の日本相撲協会の発表と共同通信などの報道で確認された死因は肺炎です。
2017年の頭部負傷後、長く療養を続けていたことと、2025年夏ごろから体調を崩して入院していたことは報じられています。
しかし、2017年の転倒が直接的に肺炎を引き起こしたという医学的な説明は公表されていません。
したがって、事故から9年後に亡くなったという時間的なつながりと、医学的な死因を混同しないことが大切です。
【高田みづえさんとの結婚】人気歌手と大関が築いた約40年の夫婦生活
若嶋津さんの人生を振り返る際、高田みづえさんとの結婚も欠かせません。
高田みづえさんは、1970年代後半から1980年代にかけて活躍した人気歌手です。若嶋津さんと同じ鹿児島県出身で、当時から注目を集めていた2人の結婚は、大きな芸能ニュースになりました。
1985年9月27日に結婚2人が結婚式を挙げたのは、1985年9月27日です。
ホテルニューオータニで神前結婚式が行われ、夕方には盛大な披露宴が開催されました。
当時の報道によると、披露宴には約1,500人が招待され、テレビ朝日系列で生中継された番組の視聴率は30.2%を記録しました。
当時28歳だった若嶋津さんと25歳だった高田さん。大相撲の人気大関とトップクラスの人気歌手という組み合わせは、芸能界とスポーツ界の双方で大きな話題になりました。
高田みづえさんは結婚を機に芸能界を引退結婚後、高田みづえさんは芸能活動を引退し、相撲部屋のおかみさんとして夫を支える道を選びました。
1990年に若嶋津さんが松ケ根部屋を創設すると、部屋の運営を支える立場になります。
相撲部屋のおかみさんの仕事は、単に師匠の妻として生活をともにするだけではありません。
弟子たちの生活面への気配り、食事や身の回りの管理、来客への対応など、多岐にわたります。
元アイドル歌手としての知名度を持ちながら、相撲部屋の日常を支えてきたことは、高田さんの人生における大きな転換でした。
雑誌Numberの過去の取材記事でも、芸能界から相撲部屋のおかみさんへと変わった高田さんの歩みが紹介されています。
2017年の事故後も夫を支えた高田みづえさん2017年の転倒事故は、夫婦にとっても大きな出来事でした。
若嶋津さんが入院していた時期、高田さんは病院と部屋の仕事を行き来しながら生活を支えていたことが、後年の報道で紹介されています。
2023年の相撲協会退職まで、夫の療養と相撲部屋に関わる生活は続きました。
2026年3月の訃報に際しても、高田さんは喪主を務め、夫との長い年月を振り返りました。
2人の結婚から約40年。人気歌手と大関という華やかな出会いだけでなく、相撲部屋の運営、病気や療養生活など、さまざまな時間をともに過ごした夫婦でした。
【二所ノ関親方としての功績】松ケ根部屋を創設し7人の関取を育成
若嶋津さんは1987年7月場所中に現役を引退しました。
しかし、相撲界から離れたわけではありません。
引退後は年寄「松ケ根」を襲名し、指導者として後進の育成に取り組みました。
二子山部屋から独立して松ケ根部屋を創設若嶋津さんが所属していたのは、初代若乃花が師匠を務めた二子山部屋です。
引退後は同部屋の部屋付き親方として経験を積み、1990年2月に独立。東京都内に松ケ根部屋を創設しました。
自らの現役時代の経験を生かし、若い力士たちの指導にあたります。
部屋からは、若孜、若光翔、若東龍、春ノ山、松鳳山、一山本、島津海ら7人の関取が誕生しました。
中でも元小結・松鳳山は、若嶋津さんの弟子として知られています。
2014年に二所ノ関親方を襲名2014年12月1日、若嶋津さんは年寄名跡「二所ノ関」を襲名しました。
これに伴い、松ケ根部屋も二所ノ関部屋へと名称を変更します。
この変更は、日本相撲協会が公式に発表したものです。
二所ノ関部屋は、横綱大鵬などを輩出した歴史ある名門でした。2013年に閉鎖されていましたが、若嶋津さんの襲名によって名称が復活しました。
これは単なる部屋名の変更ではなく、伝統ある名跡を受け継ぐという意味を持っていました。
日本相撲協会の理事・審判部長としても活躍若嶋津さんは2014年4月に日本相撲協会の理事に就任しました。
2016年3月からは審判部長も務め、現役時代の実績を背景に相撲界の運営にも携わりました。
審判部長は本場所の取組や審判業務に関わる重要な役職です。
現役力士として土俵で戦う立場から、相撲界全体を支える運営側へと役割を変えていったことが分かります。
しかし、2017年の事故によって公務への復帰は難しくなりました。
2021年に部屋を継承、2023年に協会を退職2021年12月、若嶋津さんは部屋の師匠を元関脇・玉乃島の放駒親方に引き継ぎました。
部屋は放駒部屋として新たな体制に移行します。
その後、若嶋津さんは2022年1月に65歳の定年を迎え、再雇用制度によって参与として協会に残りました。
そして、2023年7月21日付で日本相撲協会を退職しています。
同年12月には、退職を記念する感謝の集いが開かれました。
ここで混同しやすいのが、二所ノ関親方という名称です。2014年に若嶋津さんが襲名した年寄名跡と、その後に同じ名跡を継承した人物の活動は区別する必要があります。若嶋津さんは2023年に協会を退職しており、2026年まで現役の親方として活動していたわけではありません。
【プロの結論】若嶋津六夫さんが相撲界に残した3つの功績
若嶋津さんの生涯を振り返ると、評価すべき点は幕内優勝2回という記録だけではありません。
相撲界に残したものは、大きく3つに整理できます。
1. スピードと技術を武器にした大関像若嶋津さんは、圧倒的な体格だけに頼らない相撲で人気を集めました。
左四つからの攻め、上手投げ、俊敏な動き。こうした特徴が「南海の黒豹」という個性につながりました。
横綱には届かなかったものの、大関在位28場所という実績は、長期間にわたって上位で戦い続けた証拠です。
2. 名門部屋を引き継ぎ、次世代を育てた指導力1990年の松ケ根部屋創設から、2014年の二所ノ関部屋への改称まで、長年にわたって弟子の育成に力を注ぎました。
7人の関取を育てたことは、親方としての大きな成果です。
特に松鳳山のような幕内・三役経験者を育てたことは、指導者としての実績を象徴しています。
3. 相撲界と家族に支えられた晩年2017年の転倒事故以降、長期にわたる療養生活を送りました。
それでも2023年の感謝の集いでは、弟子を育てたことへの感謝を伝えています。
相撲界で築いた人間関係、妻のみづえさんとの夫婦生活、弟子たちとのつながりは、現役引退後も続いていました。
若嶋津さんの人生を評価する際には、優勝回数や勝敗だけでなく、後進を育てた実績まで含めて見る必要があります。
若嶋津六夫さんに関するよくある質問(FAQ)
Q1:若嶋津六夫さんはいつ亡くなりましたか?
2026年3月15日です。69歳でした。日本相撲協会の発表によると、死因は肺炎で、千葉県内の病院で亡くなりました。
Q2:若嶋津六夫さんの本名は日高六男ですか?
はい。本名は日高六男(ひだか・むつお)です。若嶋津は現役時代の四股名で、二所ノ関親方は引退後の年寄名跡に由来する呼び名です。
Q3:若嶋津六夫さんは幕内優勝を何回していますか?
幕内最高優勝は2回です。1984年春場所に14勝1敗、同年名古屋場所に15戦全勝で優勝しました。生涯戦歴は515勝330敗21休です。
Q4:若嶋津六夫さんの妻は誰ですか?
妻は元人気歌手の高田みづえさんです。1985年9月27日に結婚し、高田さんは結婚を機に芸能界を引退して相撲部屋のおかみさんを務めました。
Q5:2017年の転倒事故は死因と関係していますか?
2017年10月に頭部を負傷して緊急手術を受け、その後は長期療養を続けました。2026年の死因として報じられたのは肺炎です。事故との直接的な医学的因果関係は公表されていません。
Q6:若嶋津六夫さんは二所ノ関部屋を経営していたのですか?
はい。1990年に松ケ根部屋を創設し、2014年12月に二所ノ関を襲名した際、部屋名も二所ノ関部屋に変更しました。2021年12月に後進へ継承し、2023年に相撲協会を退職しています。
若嶋津六夫さんは、1957年に鹿児島県種子島で生まれ、二子山部屋から初土俵を踏みました。
1983年に大関へ昇進し、1984年には幕内優勝2回を達成。「南海の黒豹」と呼ばれた独自の取り口で、昭和の大相撲を彩った人気力士でした。
引退後は松ケ根部屋を創設し、二所ノ関部屋の師匠として7人の関取を育成。日本相撲協会の理事や審判部長も務め、競技者から指導者、相撲界の運営者へと活躍の場を広げました。
2017年の転倒事故後は長い療養生活を送り、2023年に協会を退職。そして2026年3月15日、肺炎のため69歳で亡くなりました。
若嶋津さんを振り返るとき、忘れてはならないのは、横綱にはなれなかったという事実だけで評価を終わらせないことです。
幕内優勝2回、大関在位28場所、通算515勝。そして、7人の関取を育てた親方としての功績。
土俵で結果を残し、引退後は次の世代に相撲を伝えたことこそ、若嶋津六夫さんの生涯を語るうえで大切な評価軸です。
高田みづえさんと歩んだ約40年の夫婦生活、弟子たちとの師弟関係、そして「南海の黒豹」として昭和の相撲ファンに刻んだ姿。その記憶は、これからも大相撲の歴史の中に残り続けます。