デヴィ夫人の若い頃は、現在の華やかな姿からは想像しにくいほど波乱に富んだ人生とともにあります。旧名・根本七保子として東京で育ち、10代で仕事と勉学を両立。19歳でインドネシアのスカルノ大統領と出会い、1962年には第3夫人となりました。20代の写真に残る端正な顔立ちや気品は、パリの社交界で「東洋の真珠」と称された美貌を今に伝えています。
注目したいのは、単に生まれ持った美しさだけではありません。英語力、読書によって培われた教養、社交の場で身につけた振る舞い、そして戦後の貧しい生活を乗り越えた行動力が、国際的な活躍につながっています。2026年現在の活動も踏まえ、若い頃の写真、生い立ち、スカルノ大統領との出会い、結婚までの経歴を時系列で整理します。
【若い頃の写真】デヴィ夫人の20代はどれほど美しかった?昔の画像を検証

デヴィ夫人の若い頃の写真を調べると、10代後半から20代にかけての姿を確認できます。とりわけ注目されるのが、芸能事務所に所属していた17歳頃の写真、インドネシア大統領夫人となった時期の写真、そして27歳で娘を抱く写真です。
17歳・東芸プロ時代の写真月刊情報誌「Wendy-Net」の2019年1月掲載インタビューには、デヴィ夫人が17歳だった頃の写真が掲載されています。写真の説明には「17歳のころ。東芸プロ時代」と記されており、芸能活動を志していた時期の貴重な記録です。
当時の彼女は、画家になる夢を持つ一方、女優を目指して六本木の東芸プロに所属。演技、歌、踊りを学びながら、映画やテレビで小さな役を経験していました。
現在のような華やかなドレスや宝石を身につける生活とは異なり、まだ将来を模索していた若い女性の姿がそこにあります。
1961年の大統領官邸で撮影された姿Wendy-Netのインタビューには、1961年にインドネシアのムルデカ宮殿で撮影された写真も掲載されています。
日本で働いていた頃から一転し、国際的な舞台へと活動の場所を広げていた時期です。若い頃のデヴィ夫人の画像を探している人にとって、芸能事務所時代の写真と並んで興味深い記録といえます。
27歳、娘カリナさんとの貴重なツーショット特に反響が大きかったのが、1967年9月に撮影された娘カリナさんとの写真です。
デヴィ夫人は2020年10月、自身の公式ブログやInstagramで当時の写真を公開しました。写真は娘が生後6か月の頃に撮影されたもので、当時27歳だった本人が赤ちゃんを抱く姿が写っています。
2020年10月15日のORICON NEWSでも、この写真が紹介されました。華やかな社交界の装いとは異なる、母親としての穏やかな表情も印象的です。
さらに2024年9月には、本人が若い頃のモノクロ写真を含む複数の写真をInstagramに投稿。めざましmediaは16枚の写真を取り上げ、当時の美貌に注目しました。
これらの記録を年代別に見ると、デヴィ夫人の美しさは一枚の宣材写真だけで語れるものではありません。少女時代、国際社交界に入った時期、母親になった頃と、それぞれ異なる表情が残されています。
【生い立ち】根本七保子の少女時代は?戦争と貧しさを経験した過去
現在のデヴィ夫人からは、幼少期の苦労を想像しにくい可能性があります。しかし、本人が2019年のWendy-Netのインタビューで語った生い立ちは、華やかなイメージとは対照的です。
1940年、東京で生まれた根本七保子デヴィ夫人は1940年2月6日生まれ。東京都出身で、日本名は根本七保子です。インドネシアでの名前はラトナ・サリ・デヴィ・スカルノとして知られています。
幼少期は第二次世界大戦のさなかでした。本人の回想によると、空襲警報が鳴るたび、母親と弟とともに青山墓地の防空壕へ避難していたといいます。
東京大空襲が始まる少し前には、父親を東京に残して福島県浪江町へ疎開しました。戦争末期の食糧不足は深刻で、東京に戻った後も生活は決して楽ではありませんでした。
足の悪い母親に代わり、幼い七保子さんが農村まで食料の買い出しに出かけることもあったそうです。母親と弟を守らなければならないという意識は、幼い頃から強かったと本人は振り返っています。
画家を夢見た少女が女優を目指すまで幼い頃から絵を描くことが得意だった七保子さんは、将来は画家になりたいと考えていました。母親も内職をしながら絵の先生をつけるなど、娘の才能を伸ばそうとしていました。
しかし、当時は女性画家の作品が十分な価格で評価されにくい時代でした。母親と弟を養う必要もあり、画家の道を断念。学歴や家柄に左右されにくい仕事として女優を目指すようになります。
東芸プロで演技や歌、踊りを学び、映画やテレビの小さな役を経験したのもこの頃です。
生命保険会社に勤務しながら夜間高校へ芸能活動だけで生活することは難しく、七保子さんは中学卒業後、千代田生命に入社しました。本人のインタビューでは、入社倍率は150倍だったと紹介されています。
加えて、昼休みには喫茶店でアルバイトをし、夜は三田高校の定時制に通学。仕事と勉強、女優になるための活動を並行する多忙な日々を送っていました。
こうした経験は、後の国際的な活動を支える基礎になりました。特に英語への関心は強く、中学生の頃から外国人との文通を続け、外国文学にも親しんでいたと本人は語っています。
フランスやイギリス、ロシア、ドイツの文学作品を読み込んだ経験は、後にパリの社交界で振る舞う際にも役立ったそうです。華やかな生活の裏側には、若い頃から積み重ねてきた勉強と努力がありました。
【スカルノ大統領との出会い】19歳の根本七保子に訪れた人生の転機
デヴィ夫人の人生を大きく変えたのが、インドネシア初代大統領スカルノとの出会いです。出会いは1959年。まだ19歳だった根本七保子さんは、東京で働く一人の若い女性でした。
赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」で磨いた英語力Wendy-Netの本人インタビューによると、七保子さんは赤坂にあった高級サパークラブ「コパカバーナ」で働くようになりました。
同店は海外の要人やVIPが集まる社交場で、客の約9割が外国人だったと本人は説明しています。ここで外国人客と接する機会が増え、英語力や国際的なコミュニケーション能力が磨かれていきました。
また、茶道、生け花、日本舞踊なども学び、自分自身を磨く時間を重ねていたといいます。
この点は、デヴィ夫人の経歴を理解するうえで見逃せません。スカルノ大統領との出会いは、美貌だけで決まったものではなく、語学力や教養、社交の場で培った対応力も関係していたと考えられます。
1959年、19歳でスカルノ大統領と出会う出会いのきっかけについては、2017年の日刊スポーツが、本人がテレビ番組で語ったエピソードを報じています。
当時、スカルノ大統領がプライベートで日本を訪問していた際、七保子さんが友人と映画を見に行くため待ち合わせをしていた場所に、大統領一行が通りかかったというものです。
そこで声を掛けられ、一緒に行動することになり、会話を重ねるうちに親しくなっていったと紹介されています。
一方、Wendy-Netの本人インタビューでは、出会いから約3か月後にインドネシアへの招待を受けたと語っています。ジャカルタで大統領と過ごした2週間の間に、人生を共にしてほしいという趣旨のプロポーズを受けたそうです。
本人は当時、アメリカ人の富豪からも求婚されていたと明かしています。しかし、世界に出てみたいという幼い頃からの夢や、大統領の人柄に心を動かされ、インドネシアに滞在する決意を固めました。
1962年、スカルノ大統領の第3夫人に1959年の出会いから3年後の1962年、根本七保子さんはスカルノ大統領と結婚し、第3夫人となりました。当時22歳です。
講談社の「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」でも、1962年に東京・赤坂のクラブで働いていた女性が第3夫人になった経緯が記録されています。海外の人物紹介を掲載するTatler Asiaも、1959年に出会い、1962年に結婚したと整理しています。
なお、一部の古い人物事典やプロフィールには1959年に第三夫人になったとする記載もあります。しかし、出会いと婚姻の時期を区別すると、1959年が出会い、1962年が結婚という整理が本人の年齢や複数の人物資料と整合します。
結婚後、母親と弟を相次いで亡くしたことをきっかけに、インドネシア国籍を取得。スカルノ大統領から「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」という名前を与えられたと本人は語っています。
【年表で整理】デヴィ夫人の若い頃から現在までの経歴と人物関係
デヴィ夫人の歩みは、日本での少女時代、インドネシアでの大統領夫人時代、ヨーロッパの社交界、そして日本でのタレント活動という複数の段階に分けられます。
ここでは、本人のインタビュー、講談社の人物辞典、報道資料をもとに、主な出来事と関係する人物・組織を整理します。
| 時期・年齢 | 出来事・関係者 | 経歴上の意味 |
|---|---|---|
| 1940年 | 東京都で誕生。旧名・根本七保子 | 後のデヴィ夫人の生い立ちの出発点 |
| 10代 | 東芸プロ、三田高校定時制、千代田生命 | 芸能活動と仕事・勉学を両立 |
| 1959年・19歳 | 赤坂のコパカバーナで働き、スカルノ大統領と出会う | 人生を変える国際的な出会い |
| 1962年・22歳 | スカルノ大統領と結婚。第3夫人となる | ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノとして新たな人生へ |
| 1965~1967年 | インドネシアの政変。スカルノの権力が弱まる | 大統領夫人としての生活が大きく変化 |
| 1967年・27歳 | 娘カリナさんが誕生。9月には母娘の写真を撮影 | 母親としての人生と海外移住の時期 |
| 1970年 | フランス・パリへ移住。スカルノ大統領が死去 | パリの社交界で「東洋の真珠」と称される |
| 1990年代 | ニューヨークなど海外で活動後、日本へ活動拠点を移す | 国際的な活動と日本でのメディア活動を展開 |
| 2005年 | アース・エイド・ソサエティを設立 | 国際的な慈善活動を推進 |
| 2026年 | 慈善パーティー開催、東京地裁の判決などが報道される | 86歳となった現在の活動と社会的動向 |
この年表から分かるのは、デヴィ夫人の人生が単純なシンデレラストーリーではないということです。結婚によって国際的な地位を得た後も、政変や海外移住、家族との生活、事業活動など、何度も大きな転換点を経験しています。
特に、スカルノ大統領との関係は彼女の人生を大きく変えた一方、政治的な環境の変化によって、それまでの生活基盤を失うきっかけにもなりました。
【東洋の真珠】昔の美貌とパリ社交界で評価された理由
デヴィ夫人を語る際に欠かせない呼び名が「東洋の真珠」です。これは、パリの社交界で彼女が称された呼び名として知られています。
なぜ「東洋の真珠」と呼ばれたのか2019年のWendy-Netのインタビューで、デヴィ夫人はパリの社交界でこの呼び名が付いた背景を説明しています。
本人によると、大統領夫人という社会的地位、財力、若さ、美しさに加え、肌の美しさと社交界で珍しい東洋人だったことが評価につながったそうです。
つまり「東洋の真珠」という呼び名は、顔立ちだけを評価したものではありません。国際的な立場、独特の存在感、肌の美しさ、社交の場での振る舞いなどが組み合わさって生まれた評価でした。
美貌を支えたのは教養とコミュニケーション能力若い頃の写真では、整った顔立ちや上品な雰囲気が目を引きます。しかし、パリの社交界で存在感を示せた背景には、幼い頃からの読書習慣や語学学習もありました。
本人は外国文学を数多く読み、登場人物の考え方や振る舞いを想像することが好きだったと振り返っています。フランス文学に親しんでいた経験は、フランスに移住した後の社交活動にも生きたといいます。
加えて、赤坂のコパカバーナで外国人客と接してきた経験は、国際的な人間関係を築くうえで役立ちました。
美貌に加え、語学力と教養を持ち合わせていたことが、彼女の個性を際立たせた要素だったと考えられます。
政変後も自ら生活を切り開いた1965年の九・三〇事件をきっかけに、スカルノ大統領は政治的な影響力を失い、1967年にはスハルト政権へと交代しました。デヴィ夫人も、それまでの大統領夫人としての生活を続けられなくなります。
その後、娘とともに海外へ移り、1970年にはフランス・パリで新たな生活を始めました。
Wendy-Netのインタビューでは、パリの社交界で迎えられた後、1979年にジャカルタへ戻り、娘を迎える準備のために仕事に打ち込んだ経験も紹介されています。ヨーロッパ企業のエージェントとして石油関連ビジネスに携わり、自力で住居を整えたという経緯です。
大統領夫人という肩書を失った後も、自分の力で生活を立て直したことは、彼女の経歴の中でも重要な転換点です。
【デヴィ夫人の現在】2026年最新の活動と86歳の近況
1940年2月6日生まれのデヴィ夫人は、2026年に86歳を迎えました。若い頃の美貌で知られる一方、現在も公の場に姿を見せ、慈善活動やメディア関連の活動を続けています。
2026年2月、UNHCRへのチャリティーパーティーを開催2026年2月9日の日刊スポーツによると、デヴィ夫人は東京都内で国連UNHCR協会へのチャリティーパーティーを開催しました。
同月6日に86歳の誕生日を迎えたことも会場で祝福され、杉本彩さんや錦野旦さん、神田うのさんらが参加したと報じられています。
若さの秘訣を尋ねられた際には、精神力や毎朝鏡を見て自分に言い聞かせる習慣、美しいものや愛するものに囲まれることを挙げていました。
この活動は、国際的な慈善活動に取り組んできた彼女の経歴ともつながっています。
2026年10月、東京地裁が罰金20万円の判決一方、2026年の近況として見過ごせないのが、刑事裁判に関する報道です。
2026年10月6日、東京地裁はデヴィ夫人に対し、罰金20万円の有罪判決を言い渡しました。対象となったのは、2025年に起きた事務所の女性従業員と元マネージャーへの暴行事件です。
TBS NEWS DIGやテレビ朝日などの報道によると、裁判では飲食店での物品の投げ付けや、動物病院での元マネージャーへの暴行が争点となりました。東京地裁は関係者の供述や証拠を踏まえ、罰金20万円を言い渡しています。
華やかな社交界での経歴や長年の慈善活動と、現在の司法判断は、それぞれ分けて捉える必要があります。2026年のデヴィ夫人を理解するには、過去の功績だけでなく、直近の公的な出来事にも目を向けることが大切です。
【デヴィ夫人の若い頃】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:デヴィ夫人の若い頃の写真はどこで見られますか?
A1:Wendy-Netの2019年1月掲載インタビューには17歳頃の東芸プロ時代や1961年の大統領官邸での写真があります。また、本人の公式ブログには1967年9月に撮影された娘カリナさんとのツーショットが掲載されています。2024年9月にはInstagramでも若い頃のモノクロ写真を公開しました。
Q2:デヴィ夫人は20代でスカルノ大統領の第3夫人になったのですか?
A2:はい。1959年に19歳でスカルノ大統領と出会い、1962年に22歳で結婚して第3夫人となりました。講談社の人物辞典やTatler Asiaでも、1962年の結婚が紹介されています。
Q3:「東洋の真珠」と呼ばれた理由は何ですか?
A3:パリの社交界で、肌の美しさや若さ、洗練された容姿、国際的な存在感などが評価されたためです。本人も、当時の社会的地位や美貌、社交界で珍しい東洋人だったことが呼び名につながったと回想しています。
デヴィ夫人の若い頃は、単に美しい写真が残る華やかな時代というだけではありません。根本七保子として過ごした少女時代には、戦争や貧しさを経験し、仕事と勉強を両立しながら将来を切り開いてきました。
1959年のスカルノ大統領との出会い、1962年の結婚と第3夫人への転身、そしてパリの社交界で「東洋の真珠」と称されるまでの歩みには、語学力や教養、自らの環境を変える行動力がありました。
若い頃の写真を確認するなら、17歳の東芸プロ時代、1961年のムルデカ宮殿、1967年の娘カリナさんとの写真が特に注目すべき記録です。それぞれ異なる人生の段階を映し出しています。
2026年現在、86歳となったデヴィ夫人の活動には慈善事業や公の場への出演がある一方、10月には刑事裁判の判決もありました。過去の美貌や国際的な経歴だけで人物像を固定せず、現在の動向も含めて見ることが大切です。
デヴィ夫人の魅力を理解する鍵は、若い頃の美しさと、それを取り巻いていた時代背景、そして自ら人生を切り開いてきた歩みを一体として捉えることにあります。
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